日本のジーンズの歴史について 中編

日本のジーンズ製造のヒストリーと言えば、絶対に欠かせないのが岡山児島地区の果たした役割の大きさです。
岡山地区の歴史において、綿花栽培や染色産業の経験、また学生服の縫製においては当時の国内需要の9割を占めていたという事で、学生服の縫製設備やノウハウがジーンズ縫製の技術に有利だった事は間違いありません。
また、岡山児島地区の『イノベーションを生み出す風土』や新しい事に取り組むイノベーターとしての資質が、日本のジーンズを生み出す先駆者たちとして果たした役割は、大変偉大な功績と言えます。

備後地区、岡山地区、児島地区においてジーンズが生まれたストーリーについては、高い見識を持たれた大変優れた先生の著作『日本ジーンズ物語 著者 杉山慎策氏 発行 吉備人出版』に詳しく書かれています。日本のジーンズの歴史や21世紀のジーンズの在り方、また桃太郎ジーンズの真鍋社長様やキャピタルの平田社長様といった世界に知られるジャパンデニムの雄の方々と杉山先生の対談なども書かれており、皆様にぜひご一読をお薦めします。
特に、岡山県ご出身の方にとっては、ジーンズの話だけに留まらない岡山の歴史や県民性など、史学書としても興味深く読んで頂ける事と思います。

『日本ジーンズ物語 著者 杉山慎策氏 発行 吉備人出版』

岡山児島地区のジーンズ生産の歴史について、私のような中途半端な知識しか持たない者が書くことは分不相応ですので、そちらは『日本ジーンズ物語』にお任せして、私はもうひとつの日本のジーンズの産地である東北地方(秋田県・宮城県)について書いておこうと思います。
なぜ秋田や宮城のジーンズ生産の事を書こうと思ったかと言うと、たぶん現在でそのことを知っている人間が、日本中で数人だと思うからです。ジーンズ業界関係者で、誰かひとりくらい、先輩たちの歴史を語り継いで行っても良いのではないかと思います。

【関東の繊維産地、行田地区】
話は少し戻りますが、戦後から1960年くらいまでの間に大石貿易さんのCANTONや常見商店さんのEDWINが日本のジーンズブランドとして誕生しました。大石貿易さんは当初、岡山児島の学生服工場(後のBIG JOHN)に生産を委託していたそうですが、そもそも関東地区の企業である大石貿易やEDWINは、やはりできれば近場の産地で生産したいと考えました。そして、関東地区の繊維業の産地として当時から現在まで続くエリアに、行田・羽生・加須地区があります。行田市については、少し前にテレビドラマ『陸王』で足袋メーカーや工場などが大変有名になりましたね。
なお、この地域については様々な表記において『行田・羽生・加須地区』と書かれている事が多いのですが、表記が長いので以下『行田地区』とさせて頂きます。羽生の方、加須の方、ご容赦ください。

現在でも当時からの流れは変わっていない部分も多く、この埼玉行田地区は繊維産業の中でも主に作業着を得意としていました。埼玉県の縫製工場組合などを検索すると、作業着関係の工場が多くみつかります。
そして、1960年代当時、関東地区のジーンズブランドは行田地区の縫製工場に生産を委託していました。

先輩からお聞きした話では、当時の作業着業界では『ライフルマン』という企業が好調だったようで、行田地区にはライフルマンの生産を行う縫製工場が数社あったのだそうです。
現在も当時も変わらない傾向として、産地の中で仕事がどんどん増えてくると、工場間で社員の取り合いが始まります。また、社員としては少しでも賃金の高い工場で働こうと思いますので、おのずと賃金は上昇していきます。工場の社員の賃金が上昇すると、必然的に縫製加工賃も上がってきます。では、縫製加工賃を抑えるためにどうすれば良いかというと、より人件費の低い地域に生産拠点をシフトしていくという方法が取られるのが一般的です。これは、日本の繊維産業が中国生産へと徐々にシフトして行った状況や、現在の縫製工場が中国から徐々にベトナムやインドネシア、バングラディッシュにシフトしているのと全く同じ状況です。

【埼玉から秋田へ】
当時の行田地区の経営者たちやライフルマンの生産担当者たちは、埼玉県から移動していく先の産地として、秋田県や宮城県を選びました。私が公私ともに大変可愛がって頂き、東北地区にジーンズ生産を指導された故黒田会長(鳥海繊維・太平工業・現在は廃業)は秋田県の鳥海町という、鳥海山に向かう途中の自然が豊かな場所に縫製工場を設立されておりました。黒田会長とお話しすると、秋田弁ではなくて完全な北関東なまりで「やればできっからよー」などとおっしゃっておりました。私は黒田会長の他にも、秋田で縫製工場を経営している行田地区の方の数名と親しくお付き合いしてきました。

その後、行田地区で生産していたライフルマンブランドは秋田で生産されるようになっていきます。当時の同社は大変好調だったようで、秋田の地元の方と組んで自社工場のようなスタイルでも経営されていたようです。
ところが、1970年代半ば(正確ではありません)に突然、ライフルマンが倒産してしまいました。
ライフルマンと半共同経営をしていた秋田の経営者の方々からすればたまったものではありません。工場を新設して若い社員もたくさん雇用し、さあこれからというところで受注元が倒産してしまったのです。
困った経営者たちは工場の売却先を探し始めました。作業着の縫製工場ですので、設備としてはかなり厚い生地に対応できます。そして、その頃にちょうど国内のジーンズの生産が増加し始めていたタイミングで、秋田県のライフルマンの工場は一軒、また一軒とジーンズの縫製工場へとシフトしていきました。

【大石貿易・BIGSTONE】
日本のジーンズを語る上で欠かすことのできない存在である大石貿易さん。大石貿易さんがCANTONのデニム生地を輸入した事から、児島地区でのジーンズ生産が始まりました。一方では前述のとおり、関東の企業としてはできれば関東に近いエリアで生産を行いたいと考えたと思います。ネットで検索してみたところ、有名な老舗ジーンズショップである『ジーパンセンターサカイ』様のホームページ上にて「1963年 高畑縫製が大石貿易より生産販売を請け負う」と記載されておりました。なるほど。これは初めて知ったことです。後にリーバイスの国内主力縫製工場になる宮城県のタカハター株式会社さんは、1963年にはすでに大石貿易さんから仕事を受けていたのですね。
また一方で、大石貿易としても自社縫製工場を設立されておりました。この会社名が、 CANTONに続く自社ブランド名でもあるBIGSTONE(大石=BIGSTONE) であり、宮城県石巻市に東北ビッグストン、秋田県象潟市に秋田ビッグストン(廃業)という縫製工場を運営していました。どちらの工場も当時の日本としてはとても大きな工場で、秋田ビッグストンでは2ラインが稼働しておりメインの縫製ラインでは当時レディースブランドとして人気のあったエバーブルーの生産を行っておりました。

以上が意外と知られていないであろう、東北地区のジーンズ製造の歴史です。こうやって書いてみると日本のジーンズの歴史も栄枯盛衰、盛者必衰の繰り返しであることが良くわかりますね。

『日本のジーンズの歴史 中編』は以上となります。
次回『後編』は、ほとんど私の創作で【日本のジーンズとVANジャケットの関係など】を書くつもりです。
私の書き残すこのブログの文章が、どなたかのお役に立てれば幸いです。
この文章を、上記のネタを私に話してくれた故高井勝さん(元ウイング代表・アラオ縫製専務)に捧げます。

2006年 
故高井さん 写真向かって左
貝原会長 向かって右(元気にご活躍中)

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