秋田からの手紙
『秋田からの手紙』
エドウインの秋田県自社工場が8月末をもって閉鎖した事は、いろいろなところでニュースになっているので、皆さんご存知の事と思います。ここ数日の間でも、Yahooニュースなどのメディアで失業した工場の社員の方を対象とした雇用説明会が開催されたなどというニュースが入ってきています。
閉鎖された秋田県内のエドウインの工場は4か所だったそうです。中でも40年以上にわたりエドウインを支えてきた南秋田郡五城目町の秋田ホーセの閉鎖は、地元の方にとって大変ショックな出来事だったようです。
エドウインの工場の中でも、特に秋田ホーセという会社は特別な存在でした。秋田ホーセはまだエドウインの売上高が20億円程度で、日本のジーンズメーカーの中でもビッグジョンやボブソンを追いかけている存在だった時代から、日本でナンバーワンの売上高500億円時代になり、グループ工場が15社になるまで、第一号の自社工場としてメーカーとしてのエドウインを引っ張っていく存在でした。
秋田ホーセの地元である南秋田郡五城目町には、秋田ホーセで働いていた元社員のOB会があり、永い間、現役社員以上にエドウインと秋田ホーセを愛し、現役社員を応援していました。聞くところによると、OB会の集まりには現役社員の人数を大きく超えるたくさんの元社員の方が集まり、現役時代の苦労話や楽しかった社員旅行の思い出話などをしながら、和気あいあいとした楽しい時間を過ごされていたそうです。
私も30年以上にわたり秋田の工場の皆さんと苦労を共にしてきました。特に五城目町の社員の方々とは仕事を超えて、公私ともに親しくお付き合いしているOBの方も多く、一言では言い表せない思いがあったのですが、昨日、私の家に一通の手紙が届きました。
その手紙は、見覚えのある懐かしい文字で、丁寧に書かれていました。その手紙は、今から15年ほど前に定年退職された秋田ホーセの元班長さんである、トミちゃん(畑澤トミ子さん)からでした。
トミちゃんからの手紙には、秋田ホーセが閉鎖になってからの五城目町の事や、トミちゃんが退職した後に秋田ホーセの社員になったお嫁さん(息子さんの奥さん)の事などが書かれていました。
そして、手紙の内容とは別の便箋に、『思い出の会社と私』という、秋田ホーセへの思いを綴った2枚の文章が添えられていました。
手紙によると、その文章はトミちゃんが俳句の誌に投稿した文章なのだそうです。
〝追伸 私・・色々と思い出を記して残したくて、少し作文のようなのを書き俳句のページに納め、皆に知って頂いた文章を再書しますので、どうか読んでくださいネ〟
と書かれていました。
このブログでは、以下にトミちゃんからの〝作文〟を転載します。
この文章を、エドウインと秋田の工場のために一生懸命に働いてきた社員とOBの皆さん、そして、命をかけて工場の社員のために最後まで頑張った故小林さん、故畠山さんに捧げます。
『思い出の会社と私』 畑澤トミ子
異国(注 北海道)から嫁いできた私は、しばらくの間、言葉と環境の違い・・・そして日が経つにつれ、故里が恋しく感じられていました。
そんな時、紹介して頂き末広繊維工業の下着をつくる会社につとめることができ、沢山の友達や仲間に出会えたこと。このことが一番の心の支え、安らぎとなり、今この地に根づき揺るがぬ自分を育ててくれたのは、家族は勿論、仲間という存在がとても大きかったと思っております。
そして二度目の会社、エドウイン秋田ホーセでジーンズをつくる会社に三十年近くお世話になるのです。
今、自分がこうして ゆっくりとした気持ちで過ごせるのも会社のお陰といつも感謝しております。
本当に この会社の最盛期の頃は外国にもどんどん輸出し県内にも沢山の工場がありました。社員旅行では何度も外国へ行ったり 忘年会は盛大で各工場の演芸大会のように盛り上がり楽しい思い出が尽きません。
しかし平成二十六年頃から不況の風が一層強くなってきたのでした。秋田ホーセの社長(故小林専務のこと)は本社東京に在住でしたが、とても頭のきれる凄腕の社長でした。
その社長は自分が不治の病と知りながらも それを後回しにして 会社の苦境に走り回り 大手企業の伊藤忠商事に秋田ホーセを委ね見届けて—。 娘のようなかわいい奥さんを残し、六十二歳で逝ってしまったのでした。
退職していた私たちも大変なショックでやり切れない思いでいっぱいでした。
あれから六年余り、不況に合わせ このコロナ禍に拍車がかかり愛着のある思い出深い会社、町の誇りと社員の汗と努力の詰まった秋田ホーセは四十八年間の創業に幕を降ろしたのです。
悲しい現実でした。五城目の町も こうしてひとつずつ灯りが消えていくのかと思うと とてもさみしい限りです。
〝ありし日の 思い出辿る 梅雨しぐれ〟