『 織りネームの発祥と歴史』
【福井県 織りネームの発祥】
先日、株式会社フクイさんを訪問した際に、土屋社長から小林さんの講演原稿を受け取りました。
いつの講演だったかは正確には覚えていないのですが、小林さんがジーンズ協議会の理事としてジャパンクリエーションなどで講演を依頼されたときの資料だと思います。
この講演では、小林さんは【日本の織りネーム】について話しています。
小林さんは常々『我々はジーンズメーカーと言うけれど、実際には生地や附属などの資材をメーカーから買って、組み立てているだけの企業であり、我々が作っているジーンズは日本が長い時間をかけて、地場産業として培ってきた、優れたモノ作りのかたまりである』と言っていました。
ジーンズにとって織りネームとは小さなパーツですが、フクイさんをはじめとする織りネーム企業も、日本のジーンズにとって大切なアライアンス企業であると考えていた小林さんらしい講演だと思います。
なお、この講演の原稿を作るために、小林さんと私、土屋社長で丸岡地区の重鎮の方から、昔の話などをお聞きして内容をまとめました。
内容に間違いなどがあるのかもしれませんが、過去の講演原稿ですのでお許しくださいますようお願い致します。
【日本の織りネームについて】
およそ80年前(正確には明治44年 100年前) 福井県 坂井市 丸岡町の庄屋を中心とした人達が、京都西陣の指導を受け、『越前織』のルーツと考えられる織物を始めた。
当初は、広い土地を持つ庄屋が閑農期の仕事として、敷地内に織機を設置し、個人単位で行っていた。
特徴としては、西陣の『紋機』と呼ばれる織機を導入し、従来北陸地方で行われていたリボン製造の発展形である細幅織物を得意とした。
以後、細幅織物にマークを入れる【織りネーム製造】として発展としていく。
株式会社フクイの前身は、柳沢織ネームであり、1919年(90年前)に創業している。
昭和期に入り戦争の時代を向かえ、織ネームの用途は軍需製品が中心となる。陸海空軍の階級章・帽章・マーク・郵便局・在京軍人会・大政翼賛会・国防婦人会等の徽章や肩章などの受注を受けていた。
戦争が終わり現代になり、今からおよそ50年前に、細幅のシャトル織機を自ら開発し導入した丸岡地区では、主に高島屋や伊勢丹など百貨店ブランドスーツのブランドネーム製造を行った。
また当時はスーツはオーダーが主流だった事から銀座のテーラーのネームなども手がけ、以後丸井がイージーオーダーメイドのスーツの月賦販売を始めたことにより、ブランドネームの需要も増加していった。
その後、JUNやVANといったブランドが台頭し、百貨店やテーラーのネームから、アパレルブランドのネーム製造へと移行していく。
当時、丸岡地区には200社ほどの織りネーム工場があった。
アメリカでは、以前よりプリントネームが多く使用されている。一方、日本では織りネームが多く使用されており、糸の開発などの分野で進化を続けてきた。
【丸岡地区のクオリティ】
特に家庭に洗濯機が普及し始めた時代、家庭洗濯による織りネームの色落ちという問題が多発した。
丸岡地区では、織ネームに使用される糸の品質(染色堅牢度など)や調達の安定性を目指し、組合の共同事業として『丸岡ファインテックス協同組合』を設立し、独自のレーヨン・ポリエステル原着糸の供給体制を確立した。
一方、細幅シャトル織機による織りネーム製造の他に、レピア織機による製造方法がある。レピア織機は織った後にヒートカットされるため、ポリエステル100%の糸しか使用できない。
日本ダムでは、フクイとは別派として糸を調達しており、ポリエステルは糸染めされている。
フクイなど丸岡地区の産地としての特徴は、使用する糸の堅牢度など品質保証の体制が整っていること。
上海では糸の堅牢度は保証されておらず、試作して洗浄し、堅牢度が合格のものを使用するという体制。
【日本の織りネームの価値】
歴史と伝統を共有する地場産業としてのサプライチェーンが形成されている事により、同じ価値観を持った開発・品質保証が実現されている。
また、丸岡地区ではシャトル織機がメイン(生産量70%)であり、綿糸など、ポリエステル以外の糸を使用する事が可能。ジーンズに採用されているネームなどでも綿経などが使用されており、ポリエステル以外の素材を使用することにより、洗い加工によって織りネームにもダメージ感が表現されている。
日本製のジーンズはビンテージ感の表現が優れており、織りネームなどにも褪せ(あせ)崩れといった感性は大変であり、商品としての最終的な顔を意図した開発ができる。
今後についても、安全性、安心といった分野も含め、価格競争できなく価値で生き残っていける事を目指していく。