小林さんとトイレの話

今回の内容は、小林さんの講演とは関係ない日常の中の発言や、小林さんの考え方を書こうと思います。

確か2004年くらいの事だったと記憶しています。ある日、私にこう言いました。「何で工場のトイレは和式で、ウォッシュレットが付いていないんだ?」
小林さんが作ってきた工場ですので、何でかはこっちが聞きたいくらいなんですが、「うーん、何ででしょうね。でも普通(当時)工場のトイレってウォッシュレットは付いていないですよね。」などと答えました。

現在では、高速道路のサービスエリアや新幹線の中、コンビニなど、どこのトイレでもウォッシュレットが付いているのが当たり前ですが、当時はまだ現在ほど普及していたワケでもなかったと思います。ましてや古い工場などでは和式トイレが一般的でしたので、私も特におかしいとは思っていませんでした。

すると小林さんはとても顔を赤くして(気持ちが熱くなると顔が赤くなる。)「今どき、自宅のトイレは洋式で、ウォッシュレットが付いているだろう!だったら毎日会社で使うトイレにウォッシュレットが付いていないのはおかしいだろう。ウチの社員はトイレにウォッシュレットが付いているのが普通という生活をしているんだから、工場だってウォッシュレットが付いていて当たり前だろう!」

なるほど。おっしゃる通り。ちなみに小林さんはその数年前(2003年)にご結婚され、新居を汐留の高層マンション(公団管轄の賃貸でした。)にお住まいでした。
ご結婚前は世田谷の古いご実家に住んでいましたので、ウォッシュレットが付いていたとは思えません。おそらく汐留の新居で毎日ウォッシュレットを使用するのが当たり前になってきたので、突然、工場のトイレが和式でウォッシュレットが付いていない事に疑問を持ったのだと思います。
「すぐに全工場のトイレを洋式にして、ウォッシュレットを付けるように」という指示を受け、さっそく全工場の工場長に連絡してトイレ洋式化・ウォッシュレット整備に取り掛かりました。

工場長の中には「工場のトイレにはウォッシュレットは必要ないですよ」と言う意見もありました。また、特にご年配の社員からは「洋式はお尻に触れて気持ち悪いので和式を残しておいて欲しい」などの要望も出ました。
しかし小林さんはやると言ったらやる方でしたし、私も小林さんの考えには大いに賛同しましたのですぐに行動に移して、6か月後くらいには全工場のトイレはひとつの和式を残してウォッシュレットが付いた洋式になっていました。

工場長の中には、小林さんの考えをより前向きに理解して、トイレの壁のクロスや床まで貼り直して、築40年近い工場なのにトイレだけ新築みたいな工場までできてしまいました。

このトイレ環境改善は結果として、工場の社員全体の90パーセントを占める女性社員にとても好評でした。特に改築や修繕を諦めていた築年数の古い工場では、会社が直接は生産に関係のないトイレという場所をキレイにした事は女性社員にとって大変嬉しい事だったようです。私自身も直接社員から「トイレがピカピカになって嬉しい」と何度も言ってもらいました。たぶん社員の皆さんは、会社の事をそれまで以上に好きになってくれたように感じました。

 

小林さんは、このトイレ環境改善の前から、ご自身の理念としておしゃっていました。それは「工場のトイレが来客用と社員用に分かれていて、来客用はピカピカで社員用トイレの環境が悪いなんていうのは、物づくりにおいても同じ事が考えられて、商談室で聞くその会社の説明と実際の品質や納期管理には差があると考えたほうが良い。その会社の実力を見極めるためには、従業員用のトイレを見てみれば良くわかる。」

「海外工場では、まるでカフェみたいな来客用の商談室があって、現場に入ってみると、休憩室も無くて社員が製品の上に寝転がっていたり、排水設備が整っていなくて薬剤を浴びながら仕事をしていたりというとても劣悪な環境の中で社員が働いていて、そんな状態を見ても何の不信感も待たない、メーカーから訪問した社員や商社マンがとても多い。」

この理念には国の違い、先進国と開発途上国、人種、賃金レベルなど一切関係ありませんでした。小林さんは、日本でも中国でもベトナムでもチュニジアでも、いつも同じ視点で判断していました。そして、本当に『良い工場』を見つけ出してパートナーとして仕事を進めていました。

もちろん、トイレを改築するにしても費用がかかりますので、しっかりと会社としての利益を出していなくては実行は不可能です。また、設備の老朽化などでどうしても費用の優先順位は下がってしまう事もあります。
しかし、経営陣や社員の工夫により、できる事もあると思います。一番必要なのは、『どうあるべきか』(小林さんが口癖のように言っていた言葉)という理念なのだと思います。

工場の在り方、『工場はどうあるべきか』を真剣に考えていた小林さんは、自分たちの工場を第三者視点で評価してもらう仕組みを取り入れようと考えました。そして、工場グループに第三者機関であるエコテック・ジャパンのCSR監査を導入しました。
(エコテック。ジャパンについては別頁CSRをご参照ください。)

一般的にCSR監査というのはクライアントからの要請によりCoC監査(Code of conduct 取引行動指針など)を半ば渋々受けるようなものだと思いますが、小林さんは自らが積極的に、自社の工場でCSR監査を取り入れ、品質(QUALITY)・環境(ENVIRONMENT)・労働安全衛生(HEALTH AND SAFETY)・社会的説明責任(SOCIAL
RESPONSIBILITY)の各分野において、繊維製品製造の分野で国際的に求められる基準値を満たしているか、また国際的視点から第三者が評価してどのレベルであるかなどを、第三者評価機関であるエコテック・ジャパンおよびヨーロッパでは大変権威のある監査機関Tuv Rheinlandにより定期的に監査、評価を受けていました。

 

企業の社会的責任は時代を追って変化してきました。2015年の国連サミットにより世界共通の目標であるSDGsが発表、採択され、より具体的な17の目標が提示されテレビCMなどでSDGsという言葉やアイコンを目にすることも多くなってきました。

全世界が共通の目標に向けて、でき得る方策を立案し社会的な問題を解決していくという事は素晴らしいと思います。
しかし、テレビCMで人気タレントがSDGsをアピールする事よりも、自社のリサイクルやリユースシステムを広告で大々的に宣伝する事よりも、まずは自分が関わっている国内外の会社や工場のトイレ環境に注目して頂きたいと思います。そして、貴方がもしもその部分を改善するために少しでも影響力を持つ立場であるならば、『取引はしたいのですが、そのためにはぜひ従業員のトイレの環境をもう少し整備して頂けませんか?』と言ってください。それは、SDGsと同じくらい価値のある行動だと思います。

工場の社員旅行にて
全社員に屋形船からのお台場の夜景を見せたいと言って、実現しました。
酔った生産ラインの班長さんに抱きつかれてちょっと困っている小林さん。

日本のジーンズの歴史について 中編

日本のジーンズ製造のヒストリーと言えば、絶対に欠かせないのが岡山児島地区の果たした役割の大きさです。
岡山地区の歴史において、綿花栽培や染色産業の経験、また学生服の縫製においては当時の国内需要の9割を占めていたという事で、学生服の縫製設備やノウハウがジーンズ縫製の技術に有利だった事は間違いありません。
また、岡山児島地区の『イノベーションを生み出す風土』や新しい事に取り組むイノベーターとしての資質が、日本のジーンズを生み出す先駆者たちとして果たした役割は、大変偉大な功績と言えます。

備後地区、岡山地区、児島地区においてジーンズが生まれたストーリーについては、高い見識を持たれた大変優れた先生の著作『日本ジーンズ物語 著者 杉山慎策氏 発行 吉備人出版』に詳しく書かれています。日本のジーンズの歴史や21世紀のジーンズの在り方、また桃太郎ジーンズの真鍋社長様やキャピタルの平田社長様といった世界に知られるジャパンデニムの雄の方々と杉山先生の対談なども書かれており、皆様にぜひご一読をお薦めします。
特に、岡山県ご出身の方にとっては、ジーンズの話だけに留まらない岡山の歴史や県民性など、史学書としても興味深く読んで頂ける事と思います。

『日本ジーンズ物語 著者 杉山慎策氏 発行 吉備人出版』

岡山児島地区のジーンズ生産の歴史について、私のような中途半端な知識しか持たない者が書くことは分不相応ですので、そちらは『日本ジーンズ物語』にお任せして、私はもうひとつの日本のジーンズの産地である東北地方(秋田県・宮城県)について書いておこうと思います。
なぜ秋田や宮城のジーンズ生産の事を書こうと思ったかと言うと、たぶん現在でそのことを知っている人間が、日本中で数人だと思うからです。ジーンズ業界関係者で、誰かひとりくらい、先輩たちの歴史を語り継いで行っても良いのではないかと思います。

【関東の繊維産地、行田地区】
話は少し戻りますが、戦後から1960年くらいまでの間に大石貿易さんのCANTONや常見商店さんのEDWINが日本のジーンズブランドとして誕生しました。大石貿易さんは当初、岡山児島の学生服工場(後のBIG JOHN)に生産を委託していたそうですが、そもそも関東地区の企業である大石貿易やEDWINは、やはりできれば近場の産地で生産したいと考えました。そして、関東地区の繊維業の産地として当時から現在まで続くエリアに、行田・羽生・加須地区があります。行田市については、少し前にテレビドラマ『陸王』で足袋メーカーや工場などが大変有名になりましたね。
なお、この地域については様々な表記において『行田・羽生・加須地区』と書かれている事が多いのですが、表記が長いので以下『行田地区』とさせて頂きます。羽生の方、加須の方、ご容赦ください。

現在でも当時からの流れは変わっていない部分も多く、この埼玉行田地区は繊維産業の中でも主に作業着を得意としていました。埼玉県の縫製工場組合などを検索すると、作業着関係の工場が多くみつかります。
そして、1960年代当時、関東地区のジーンズブランドは行田地区の縫製工場に生産を委託していました。

先輩からお聞きした話では、当時の作業着業界では『ライフルマン』という企業が好調だったようで、行田地区にはライフルマンの生産を行う縫製工場が数社あったのだそうです。
現在も当時も変わらない傾向として、産地の中で仕事がどんどん増えてくると、工場間で社員の取り合いが始まります。また、社員としては少しでも賃金の高い工場で働こうと思いますので、おのずと賃金は上昇していきます。工場の社員の賃金が上昇すると、必然的に縫製加工賃も上がってきます。では、縫製加工賃を抑えるためにどうすれば良いかというと、より人件費の低い地域に生産拠点をシフトしていくという方法が取られるのが一般的です。これは、日本の繊維産業が中国生産へと徐々にシフトして行った状況や、現在の縫製工場が中国から徐々にベトナムやインドネシア、バングラディッシュにシフトしているのと全く同じ状況です。

【埼玉から秋田へ】
当時の行田地区の経営者たちやライフルマンの生産担当者たちは、埼玉県から移動していく先の産地として、秋田県や宮城県を選びました。私が公私ともに大変可愛がって頂き、東北地区にジーンズ生産を指導された故黒田会長(鳥海繊維・太平工業・現在は廃業)は秋田県の鳥海町という、鳥海山に向かう途中の自然が豊かな場所に縫製工場を設立されておりました。黒田会長とお話しすると、秋田弁ではなくて完全な北関東なまりで「やればできっからよー」などとおっしゃっておりました。私は黒田会長の他にも、秋田で縫製工場を経営している行田地区の方の数名と親しくお付き合いしてきました。

その後、行田地区で生産していたライフルマンブランドは秋田で生産されるようになっていきます。当時の同社は大変好調だったようで、秋田の地元の方と組んで自社工場のようなスタイルでも経営されていたようです。
ところが、1970年代半ば(正確ではありません)に突然、ライフルマンが倒産してしまいました。
ライフルマンと半共同経営をしていた秋田の経営者の方々からすればたまったものではありません。工場を新設して若い社員もたくさん雇用し、さあこれからというところで受注元が倒産してしまったのです。
困った経営者たちは工場の売却先を探し始めました。作業着の縫製工場ですので、設備としてはかなり厚い生地に対応できます。そして、その頃にちょうど国内のジーンズの生産が増加し始めていたタイミングで、秋田県のライフルマンの工場は一軒、また一軒とジーンズの縫製工場へとシフトしていきました。

【大石貿易・BIGSTONE】
日本のジーンズを語る上で欠かすことのできない存在である大石貿易さん。大石貿易さんがCANTONのデニム生地を輸入した事から、児島地区でのジーンズ生産が始まりました。一方では前述のとおり、関東の企業としてはできれば関東に近いエリアで生産を行いたいと考えたと思います。ネットで検索してみたところ、有名な老舗ジーンズショップである『ジーパンセンターサカイ』様のホームページ上にて「1963年 高畑縫製が大石貿易より生産販売を請け負う」と記載されておりました。なるほど。これは初めて知ったことです。後にリーバイスの国内主力縫製工場になる宮城県のタカハター株式会社さんは、1963年にはすでに大石貿易さんから仕事を受けていたのですね。
また一方で、大石貿易としても自社縫製工場を設立されておりました。この会社名が、 CANTONに続く自社ブランド名でもあるBIGSTONE(大石=BIGSTONE) であり、宮城県石巻市に東北ビッグストン、秋田県象潟市に秋田ビッグストン(廃業)という縫製工場を運営していました。どちらの工場も当時の日本としてはとても大きな工場で、秋田ビッグストンでは2ラインが稼働しておりメインの縫製ラインでは当時レディースブランドとして人気のあったエバーブルーの生産を行っておりました。

以上が意外と知られていないであろう、東北地区のジーンズ製造の歴史です。こうやって書いてみると日本のジーンズの歴史も栄枯盛衰、盛者必衰の繰り返しであることが良くわかりますね。

『日本のジーンズの歴史 中編』は以上となります。
次回『後編』は、ほとんど私の創作で【日本のジーンズとVANジャケットの関係など】を書くつもりです。
私の書き残すこのブログの文章が、どなたかのお役に立てれば幸いです。
この文章を、上記のネタを私に話してくれた故高井勝さん(元ウイング代表・アラオ縫製専務)に捧げます。

2006年 
故高井さん 写真向かって左
貝原会長 向かって右(元気にご活躍中)

日本のジーンズの歴史について

私がブログをやっている目的のひとつは、32年間のジーンズ業界でお世話になり、親しくお付き合い頂いた方々の事、その方たちからお聞きした貴重なお話しを、なんらかの形で書き残しておきたいという思いがあります。

残念ながら若い頃から無茶ばかりしていた先輩方はわりと短命で、生きていらっしゃれば現在まだ80歳手前くらいの方たちが何人もいらっしゃいます。その先輩たちからお聞きしたストーリーのひとつに『日本のジーンズの歴史』というものがあります。
なお、この話はあくまでもすでにお亡くなりになった先輩が話してくれた事ですので、間違っている部分や誇張されている部分もあるのかもしれません。あくまでも『私が聴いたお話し』としてご理解ください。また、明確に間違い部分をご存知の方は、ご一報頂けますと幸いです。

ご存知のとおり、日本は1945年まで戦争をしていました。そして、敗戦した日本は戦後の厳しい時代を迎えました。戦後はさまざまな物が不足していました。特にあまり農地がなかった東京都心では食料の入手は難しく、配給される食糧だけでは足りないので各地に営業許可を持たない闇市と言われる違法のマーケットが誕生していました。日本のジーンズと切っても切り離せない上野アメヤ横丁(アメ横) も、元々は戦後の闇市から発生した場所だったそうです。
当時、アメ横では食料の他に、様々な物資が販売されていました。戦後の物資不足の中でも、食品についで需要があったのは衣服類だっただろうと思います。特に東京は繰り返される空襲で、衣服が焼けて無くなってしまった人が多く、どのような衣服でも欲しいという需要があったと思います。

その頃、上野アメ横では、米軍からの払い下げ衣料品というものが売られていました。これらは米軍内で不要になった軍服や、米軍関係者が着用していた普段着などで、なんらかの経緯で米軍組織内にコネクションを持っていた(らしい)東京の業者が払い下げ品を購入して、闇市などで販売したものです。
上野アメ横周辺には、有力な払い下げ衣料品を扱う業者が3軒あったそうです。先輩からお聞きしたお話ではその三軒は『払い下げ三羽ガラス』と呼ばれていたそうです。
その中の一社が、後に初めての国産ジーンズを作り出したと言われている大石貿易(東京墨田区) であり、国産ジーンズの歴史を語る上で大変重要な『キャントン』『ビッグストン』『エバーブルー』といった創生期のジーンズブランドとジーンズ製造工場グループの全身です。

二社目は、マキノ商事(埼玉県大宮市)という会社だそうです。このマキノ商事という名前には皆さんあまり馴染みは無いかもしれません。アメ横には現在も『中田商店』さんという有名なミリタリーショップがありますが、米軍払い下げ衣料品の中には軍服が多数含まれていたはずなので、アメ横に現在でも本物の米軍払い下げ衣料品を扱っている中田商店さんがあるのは自然な事です。そして現在、本物の軍服と見分けがつかないほどリアルなミリタリーレプリカを生産されているメーカーとして『HOUSTON』というブランドが知られています。このHOUSTONブランドこそが、旧マキノ商事が立ち上げたオリジナルミリタリーブランドです。現在は、㈱ユニオン・トレーディング社として、以前から変わらぬコダワリのミリタリーアイテムを生産・販売されています。
おそらく米軍からの払い下げ衣料品を扱う中で、他社がジーンズ専業に進む道を選んだように、特に取り扱いの多かったミリタリーアイテムの専業メーカーを選ばれたのだと思います。
余談ですが、30年ほど前にマキノ商事さんが経営していた山形県の縫製工場に行った際に、マキノ社長様(当時)とお会いした事があります。たぶんすでに70歳くらいのご年齢だったかと思います。戦後日本の衣服の歴史に深く関与した偉人から直接、少しだけ昔のお話しをお聞きすることができたのは大変貴重な体験でした。

三社目は、当日アメ横にほど近い日暮里にあった『常見米八商店』です。当時の米軍の払い下げ衣料品は大変汚れた状態で入荷していたらしく、常見米八商店では汚れた衣服を洗濯してからアメ横のお店に卸していたそうです。
現在も、日暮里の常見米八商店があった日暮里の通りは生地屋さんや繊維問屋が並び、戦後からの名残を感じる事ができます。
常見米八商店ではアメ横に払い下げ衣料品を卸す際に「ジーパンをもっと持ってきてくれ。ジーパンが良く売れる」と言われていたらしく、払い下げ品の中でもジーパンをなるべく仕入れるようにしていたのだと思います。
以後、常見米八商店としても国産ジーンズを生産する事になり、1961年にエドウインが生まれました。
なお、EDWINの社名の由来は諸説あるそうで、『江戸で勝つ』ことを目指したブランド名であるという説や会社では『DENIMの文字を並べ替えてMをひっくり返した』と発表しているようです。ちなみに私が先輩からお聞きした話は、米軍払い下げ衣料品に関わっていた米軍関係者がEDWINという名前だったのでは?という説です。
昔の事を知る方からお聞きした話ですし、EDWINさんってアメリカ人では珍しくないお名前みたいですので、これが一番信ぴょう性があるように感じます。

続いて、私が先輩からお聞きした日本のジーンズ製造のヒストリーとなります。以下後編へ。