日本織りネーム物語
現在、JEANS JOURNEYホームページのEXPERIENCE AND KNOWLEDGE ブランディングパーツの項目の原稿をコツコツと書いております。 凝りすぎて(笑)あまり進まず、忘れられそうなので、最初のあたりだけブログに載せておきます。今までとは趣を変えて、だいたいこんな感じで書き出す予定です。 本編のアップまで少々お待ちください。^ ^
【織りネーム日本昔話 ※ ほぼフィクション】
むかしむかし、それは明治時代の終わりころ。福井県の丸岡というところに一人の立派な庄屋様がおったそうな。
丸岡というところは大きな川が近くを流れ、きれいな水に恵まれていて美味しいお米が取れるところで、三国の港には北前船という大きな船が立ち寄り、大きな川を上手に利用してたくさんのお米を京都などの大きな町に運んでとても良く売れ、人々は豊かに暮らしていたそうな。
親切で村人思いの庄屋様は村の農家からとても信頼されていて、村人はみな幸せに暮らしていたという。
いつも村人の暮らしを気にかけている庄屋様には、実はひとつの心配事があった。
それは、何年間かに一度の事だが、なぜだか夏にとても寒くて陽ざしが弱くて米の粒が大きくならない年があったり、めったに来ない台風が丸岡を通過して稲が倒れて水に浸かってしまう事もあった。
農家にとって、その年の米が不作になると、その後の一年間の暮らしが貧しくなってしまう。とくに丸岡というところは冬にはたくさんの雪が降り、冬の間の仕事は少なく、蓄えが尽きてしまう農家もあったそうな。
村人思いの庄屋様は、雪が降っているころにできる仕事がないか、いつも考えていておった。
ある日、小国の港に用事があった庄屋様は、北前船で京から運ばれてきたとても美しい着物の帯を見た。
それは、坂井のお金持ちの奥様たちがお召しになる、たいそう高価な帯であった。
庄屋様は、それが西陣織という名の帯だということは知っておったが、じっくりと見ると手で描いたような複雑な模様が色鮮やかな色の糸で織られておった。
たいそう知恵のあった庄屋様は、その帯を見てピンと来た。「この帯は、狭い幅の機械を使って織っておる。幅の狭い織機ならば、うちの使っていない納屋に手を入れれば何台か置けるぞ!」
丸岡に戻った庄屋様は、細い幅の織機についていろいろと調べてみた。すると、当時、ロシアとの戦争に勝利した日本では兵隊さんの勲章に使う細い幅の織物の需要がかなりあるという事がわかった。
勲章には、リボンに縞模様などを織り込むことがあり、この模様を西陣織の要領で作り出せば、鮮やかな柄を織ることができる。この事に気づいた庄屋様は、京西陣から帯を織る職人さんを招き、帯よりもさらに細い幅の織物に鮮やかな柄を織り込む機械を作り上げたんじゃ。
おおよそ6尺程度の幅しか取らない狭い幅の織物を織る機械を何台か揃えて、庄屋さんは自宅の庭の納屋をきれいにして、近所の農家の親父さんたちに声をかけた。
「おたくのお嫁さんやお嬢さんに、わしの庭の小屋で、雪が降っている時期に細い幅の織物を織ってもらえんかね」
村人から信頼されている庄屋さんの自宅の小屋には、近所の農家からたくさんのお嫁さんや娘さんが集まり、いつしか丸岡には細幅織物を作る小さな工場が、一軒また一軒と増えていったそうな。
雪深い丸岡地方に、冬の間にも収入が得られる細幅織物という仕事ができたことは、村人の生活をおおいに助けた。新しい仕事のおかげで、秋の収穫が少なくなっても暮らしに大きな影響はなくなり、冬の間にひもじい思いをする事はなくなったそうな。
庄屋様が村人のためを思って始めた幅の狭い織物の仕事のおかげで、丸岡の人々はますます幸せに暮らすことができるようになった。
庄屋様もたいそう安心したことじゃろう。
これが、今も続く福井県丸岡地方(現坂井市丸岡町)が、日本で一番沢山の織りネームが作られる産地になった一番最初のお話じゃ。
おしまい。
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